Hier ein biographischer Hinweis auf das Leben des Nürnberger Sinfonikers Martin Scherber (1907-1974). Entnommen dem Booklet zur 3. Sinfonie in h-moll (2001).
A brief biographical note on the composer Martin Scherber (1907-1974). Taken from the booklet to the Symphony No.3 in B minor (2001).
マルティン・シェルバー -その人生および創作について
「魂が音楽を愛するのではない。 魂そのものが音楽なのだ。
非音楽的なものはすべて、魂をだめにしてしまう。」
マルティン・シェルバー
この交響楽の作者であるマルティン・シェルバーは、1907年ニュルンベルクに生まれた。
すでに、若いうちからピアニストおよび作曲家として公の場に出ていたが、その後ミュンヘンの音楽芸術アカデミーで学び、アウシックという町でオペラ指揮者、合唱指導者として活動した。
のちに、彼はフリーランスの音楽家として、ワーグナーのマイスタージンガーの町、ニュルンベルクに戻る。
この地で、歌曲やピアノ曲、そして70年代初めに発表された、三つの交響曲など、彼の音楽家としての人生を代表する作品が生み出された。
彼はすでに、少年期から、音楽というものが人間の内なる世界から生み出されるものであり、外の世界には音楽のイメージを与えるようなものはない、ということを経験していた。
音楽がまったく別の発達の道を歩み始めた20世紀という時代に、彼のこの経験から、彼の人生目標が育っていった。
彼は、音楽がある法則性とともに響きだしてくる その源泉を見出そうとしたのだ。
シェルバーは、彼の育った家庭環境において、すでにその類まれなる技術的才能を与えられていた。
市のオペラオーケストラの主席コントラバス奏者であった彼の父親は、彼を技術者にしようとした。
この実務能力を自己の内に養いつつ、規律に忠実に、認識を深め広げようと瞑想するなかで、彼は自己の音楽性を変容させていった。彼は、音楽の源泉、源流に辿りつくことができたのだ。
新しい世界が、彼の前に開けた。
彼に明らかとなったのは、宗教性から生まれたヨーロッパ音楽が、感情表現の重視されたロマン主義、また知的で感覚的なモダニズムを通り抜け、まさに個人性、主観性の強調されるこの時代にあって、瞑想的活動を通して、更なる発展を遂げていかなければならない ということである。
意識的に自己の内面活動を行うことで、自己の魂と精神は、宇宙にある、主観に左右されない魂と精神の世界と結びつくことができるであろう。 このような世界にこそ、音楽のインスピレーションの泉が見出せるのだ。
この泉は、人間のこの内面の活動が成熟すればするほど、さまざまな表れ、個性的な有り様として体験することができるであろう。
この体験で得られた見識は、人間と自然の内奥に導いていくものなので、人と音楽の進化を、まったく新しい光の下に照らし出すことができるのだ。
自然科学と技術によって生まれた様々な機械は、知覚活動や情報処理の可能性を支えている。しかし、この機械文化から次々と生み出されてくるメディアは、音楽から”人間らしさ”を失わせていく危険をはらみ持っている。
こういう時代にこそ、瞑想という「魂の技術」から獲得された芸術が、大きな助けとなるであろう。
彼の交響曲のなかに生きている内面的な力と暖かさについて、彼の同世代人が語っているのも、まとはずれなことではないのだ。
彼は、エドヴィン・フィッシャーとヴィルヘルム・フルトヴェングラーが、彼の創作活動を非常に高く評価していることを知っていた。
彼が、20世紀において、孤高の人としてとどまらなければならなかったのは、劇的な悲惨な出来事に満ちた時代においては彼の運命とも言えるであろう。
シェルバーの交響曲を先入観にとらわれずに「心で聴く」人は、その交響楽的発展が、意識的に導かれたものであることを感じ取るであろう。それは、まるで耳が不自由になりながらも、内的にプロメテウス的な力をもって”聴いていた”ベートーヴェンや、自分の魂を”天”にまで、とどかせて作曲したブルックナーの、姿に例えられるもであろう。
このような、芸術上の認識方法を発見したことで、マルティン・シェルバーは交響曲をその形式に至るまで再活性化し、活気と精神力に満ちた 命ある作品に仕上げることができた。
シェルバーは、交響曲を死後に発表するつもりであった。
これらの交響曲を、アルブレヒト・デューラー生誕500年にあわせ、1971年に発表しようと友人たちが発案した わずか数週間のち、マルティン・シェルバーは、散歩中に飲酒運転のドライバーの車にはねられてしまった。
そして構想されていた四作目の交響曲と、オペラは書かれないままになってしまった。
1974年初頭、事故で重症を負ったことによる後遺症のため、彼はデューラーの町ニュルンベルクでその一生を終えた。
フリードヴァルト・M・クーラス
Translation: Taichi Watanabe und Tomoko Morio